判子は自分自身の心のありようだね・・・

<span class="deco" style="font-weight:bold;font-size:large;">【判子って不便だよね・・・】</span>

 仕事柄、判子を押すという誠に日本独特の古典的な作業を、毎日しています。電子承認が多いこの昨今ですが、中には、コンプライアンス重視で紙の書類をそのまま残す部分も多いのです。 なので、いろいろな方の押す判子を見る機会があります。しかしながら・・・・ふと思うんですけど、これって効率的じゃないなと思うんですよね。例えば、そんなアタクシと同じ気分なんだろうな〜っていう押し方の判子なんて直ぐに分かるもん。しかしそれって・・・・・気持ち良くないかな・・・。自分自身の押印も反省です。

 ハッキリ言って、判子は不便です。サインのようにペンを借りればそれで済むわけでなく、持ち歩かねばならないしまた朱肉も鬱陶しい・・・・。さらに言えば、丸いから方向をいちいち確かめたりなんかしてね・・・。この不便さを長年なんで日本人は共有しているのだろう・・・。

 

 


<span class="deco" style="font-weight:bold;font-size:large;">【不便だからこそ、考えさせられる】</span>

 それは、この不便さが、何か重要なのかもしれません。押印を必要とする書類は、すくなくとも何かしらの重要性を含むものと思います。その重要性を、本当に理解しているか・・・・・もう一度たちかえる「間」を、この不便さが私たちに与えているのではないかと・・・。例えば、家を買うような一世一代の大切な契約だったら、この「間」がとても大切に思えるはずです。そういうときの押印の姿は、きっと立派なことでしょう。

 押印は、管理職の心の姿を現しているのかもしれません。それがたとえシャチハタであっても、インク補充液の交換をサボっていたり、斜めやさかさまになってたりすると、やっぱり相手に失礼ですよね。日本人は礼儀を重んじる民族。やはり、日本のビジネスマンと判子は、切り離せないようです・・・・。